「わけの分からないモノ」を、どれだけ自分から切り捨てないかが、 大切だと思う時があります。

「わけが、わからんぞ」と、考えるの辞めたり最初から受け付けないと かいうのは、やっぱりよくないでしょう。

「理解不可能」でも、楽しいことというのはあります。

実は楽しいと信じていることのほとんどの、詳しい仕組みなんて知らないじゃないですか。
スマホ、で通話できる仕組みや、テレビが映る仕組み。
遊園地のローラーコースターも、どうして一周してうまく停止できるのかと聞かれても、「プログラムされてるから」と言うのが精一杯でしょう。街角のおしゃれなカフェって、儲かってる?税金はいくら? あの人って、なに考えてるの??

私たちは 勝手に、自分本位の勝手な価値観で、「わかるもの」「わからんもの」を分けたつもりで、多くの「わけが、わからんのぞ」というものを排除してしまっている気がします。

「わかる」という言葉は、「分ける」という言葉が元になっていると言われています。「分けること」、分別することは、「わかること」の第一歩のようですね。

昔は「病気」と言える状態は、とにかく弱っている人そのものを指し、病名などの診断は大まかでごくおおざっぱなものだったそうです。

今や医学の発達で、身体の部位によって様々な病名がつけられています。
精神科においては、日々新しい症状や病名が発明され続けている、という印象すらあります。

駐車場でなら、まずバイクと車を「分け」ないと、修理のための工具も選べません。ただ、「わけの分からないモノ」にこ そ、自分を無理矢理押し広げてくれるなにかが埋まっていると思わないといけないと思います。

 

 

身の回りが「わかる」ことばかりになって、それで世間のすべてををわかったような気になって、いつしか他人にそれを教えるかのような立場になって、「あの人は利口だ、なんでも知ってる」なんて言われて浮かれてはいけないのです、絶対にいけない。

常に「人生の先輩ヅラ」をするようになってはいけない。
「俺はアホさ」というスタンスを、絶対に忘れてはならないと思います。
物知りの教授も、たいそうな思想家も、どうせ、世の中にある九割九分九厘九毛の書籍を一度も開きもせずに人生が終わるのです。それを思うと、私は、いつもそれなりの恐怖を感じます。

「俺は、なにも知らずに死んでいくのだな」、と。

どうして多くの人が「自分には知識がある」という勘違いをして勉強をしなくなるかというと、「溜め込んだ事を、吐き出してないから」というのが原因の主な一つのような気がします。

覚えたことがなんらかの形で一度アウトプットされることによって、その行為によって初めて「いつでも出せる引き出し」に収納されるような気がするのです。

これは頭の中のハナシです。特に大人になってからは、数少ない経験から、そういう気がしています。アウトプットを一度することによって、初めてその知識が自在に利用できるようになる。

そして「わけの分からないモノ」を、なんなんだコレわ…とこねくり回してい
るうちに、いつか違う角度から入って来た別の情報との接点が見つかる。
リンクする、という言い方を今はするのがちょうどいいでしょうか。それが連続すれば、いつしか「三題噺」のように、なんともそれが必然のような組み合わせに変わってしまっている瞬間が来ます。

ほら、知り合いの知り合いが実は友達だった、とかってあるでしょう。
世間は狭い、というやつ。

アレに近いですね。だから、知らないモノ、わけのわからないモノ、理解できないモノ、そういうのは、捨てちゃいけないんだと思います。

もちろんすべての場合ではないし、ずっと仕舞ったままになっているコも多くあるでしょう。でも自分の部屋は狭いし、所持金も少ないけど、頭の中だけはみんな無限大だと信じていたいのです。