「かわいい」論 (ちくま新書) 私はある時、ニューヨークの女性編集者と「かわいい」をめぐ る話をしていたとき、現在のアメリカでは女性を不用意にcuteと呼ぶことは、政治的公正さを無視した差別用語の運用に当たることになると、強い詰問口調でいわれたことがあった。 (p.16)

私の見聞したかぎり、「かわいい」に対してもっとも深い憎悪 を示したのは、社会学者の上野千鶴子である。彼女は老人問題を扱った最近の著作のなかで、「かわいい」とは「女が生存戦略のために、ずっと採用してきた」媚態であると一刀両断し、子供や孫に面倒を見てもらうために「かわいい」老人であることが推奨されている今日の日本社会のあり方に、疑問を呈して いる。(同~p.17)

だが「かわいい」という観念を抜きにして間近にヌイグルミを 眺めてみれば、人はそれがいかに畸形でグロテスクな用紙をし ているかは了然としている。デフォルメされた表情をもち、 単純な原色に塗り分けられた犬や熊の似姿が「かわいい」と感じられるのは、それが本質的に「かわいい」からではなく、 人間がそれに「かわいさ」を投影するからに他ならない。 (p.87)

外界と内界の間に明確な境界線を引き、小さく細やかに設えら れた内界を凝視することで、それに対応する主観を無時間性のうちに定立すること。関与の対象ではなく、ただ純粋に視覚的 な対象としてミクロコスモスを創造し、そこに親密さを表す記 号的オブジェを次々と持ち込むことで、喪失されて久しい世界の中心を虚構のもとに再構築すること。(p.104)

「かわいい」を語るメディアが説いているのは、幸福感であり、消費主義であり、生理的年齢に対する精神の勝利である。また手の届くところに置かれた祝祭であり、選ばれてある「わたし」をめぐる秘密めいた快楽である。ではそこで隠蔽さ れているものは、何だろうか。それは消費の快楽に対立するもの、つまり一言でいうならば労働であり、歴史であり、雑誌の作り手と読者が作り上げる共同体の外側にある他者である。 (p.149)

かわいい論

いまや当たり前になった「かわいい!」という言葉や表現は、 その対象物そのもののことを指しているのではなく、それを感受したという証と、鋭く親密な関係性を確認あるいは発信するべくして用いられる。

つまり「かわいい!」と叫ぶ、「なんでもカワイイと表現する若者」と揶揄される人らは、専(もっぱ)ら自分自身のために、または親密な他者との関係維持のために、広い意味で網をかけられる「かわいい」 という単語を使う。

雑誌の比較検討の部分は秀逸で、編集者の意図や傾向を、みごとにあぶり出してくれている。 そして「かわいい」が、消費する(つまり売る、買う)という文脈の中でこそ活かされている事実を、まざまざと浮き彫りに。

「かわいい」事物が、本質的にどうであるかなどは 関係がない。

それを感じ「かわいい」と発する自分がどうであるかのみが、 問題なのだな。
して今や、いろいろな表現が、「かわいい!」の中に押し込められて、隠されているようになった。

醜悪な感情も、攻撃的な深層も、すべて「かわいい!」で糊塗できる時代。
もはや「かわいい」は、「かわいい」という意味だけではなくなってきている。

注意が必要な言葉でもあるのだ。