赤めだか
「談春!何してやがんだ。馬鹿野郎!どこの世界に弟弟子の靴揃える兄弟子がいるんだ。おい小僧、よく覚えておけよ!年が下でもお前が兄さんと呼ばれるのはな、お前が後輩に教えられることがあるからだ。形式だけの兄弟子、弟弟子なら、そんなものヤメチマエ!談秋に聞かれたことは、皆答えられるようにしとけ。そのための努力をしろ。靴なんか揃えてる暇はねェんだ。前座の間はな、どうやったら俺が喜ぶか、それだけ考えてろ。患うほど、気を遣え。お前は俺に惚れて落語家になったんだろう。本気で惚れてる相手なら死ぬ気で尽くせ。サシで付き合って相手を喜ばせられないような奴が何百人という客を満足させられるわけがねェだろう。談秋、テメェもテメェだ。兄弟子に靴揃えられて黙って履こうとする馬鹿がどこにいる!」
(p.38〜p.39)
「先へ、次へとなにかをつかもうとする人生を歩まない奴もいる。俺はそれを否定しない。芸人としての姿勢を考えれば正しいとは思わんがな。つつがなく生きる、ということに一生を費やすことを間違いだと誰が云えるんだ」(p.74)
翌日、談志(イエモト)の元へ御礼に出向いた。
「昨日の包丁な、談志(オレ)より上手かった」
驚いて御礼の言葉も出なかった。
「談春(おまえ)の会に小さん師匠が出てくれるんだって」
ドキッとして言葉が出なかった。
「談志(オレ)が小さん師匠の家に挨拶に行ってやる。段取りしろ」
そしてニヤッと笑ったあとで、ドスの利いた声で、
「談春(おまえ)の仕掛けに乗ってやらァ」と云った。その晩寝れなかった。(p.273)
「芸人」というライセンスを得たかのように振る舞う人は多い。
コンパや飲み会で少しモテるからだ。
モテる人は芸人なんぞにならなくてもそこそこモテると思うのだが、
そういう場所で「オモシロさの底上げ」をするためだけに、芸人の肩書きを手放さない人は、けっこういる。
「芸人ごっこ」をやっているのである。
運転免許や調理師免許、または英語や漢字などのあらゆる検定テストでも、
試験の当日からその知識や意識は、加速度的に低下していく。
猛勉強や努力をしても、合格してライセンスをいただければ「保持者でござい」と大きい顔が出来る。
更新するための同等のテストが1年後にあったら、さてどれくらいのライセンス落伍者が出ることだろう。
「修行は矛盾に耐えるところ」。
まるで方程式を教えるように学校然としたお笑いスクールでは、この「矛盾」の部分をまったく教えない。
授業風景などはほとんど見たことのないが、なぜそれ(矛盾を抱えることを教えていないこと)が解るかというと、
「立派な卒業生です」というツラのお笑いスクール卒業生たちが、
この「矛盾」について、どんな論理も、いっさいの苦悶も、なんの葛藤も持っていないことが会話してわかるからである。
まるで規定のレールを早く走ればホメてもらえ、独創的で輝かしい、とんでもない未来が待っているかのような顔をしている。
上から下までバカか、とすら思う。
実際は矛盾の連続である。
矛盾と言う言い方では二項対立のように思えるが、
現実はスパゲティのように複雑に絡み合っていて、 矛盾どころか混沌、不条理に近い。 それを乗り越える心構えとは、いったいなんなんだろう。 突き詰めれば自分の存在とは、これまでの自分を支えてきたものが、どれくらい役に立つほどの容れ物なのだろう…。 さらに云うならば、スクール生はしょせん、 「お客様」なのである。※写真は本文と関係ない。 受講料・入学金を払って「習う」、お客様だ。 それが、180度かわって金を取る存在になる。 なれるかどうかは、この「矛盾」と向き合うことにかかっている。 わかってないまま、10年を過ごしている人もまた、たくさんいることも事実だ。 読むのが少し遅かった。家元は、もういない。