できない子もできた子も、 「みんなよくできました」 ですませるのは、「ごまかしの平等」。(p.163)
子供も成人したことだし、これからは自分が好きなように生きさせてもらいます。夫は今まで好きなように生きてきたのだか ら。というのが、典型的な「熟年離婚」をする妻の言い分。「耐えて来た」「我慢してきた」とはなんたる言い草、と言い たい。それでは何十年もあなたはただ耐える一方だったのです か、と聞いてみたい。(p218~p.219)
私が一番嫌なのは、極端なペット愛好者たちの、 「人間は裏切るけど、動物は裏切らない」 という考え方だ。人間本位の身勝手さだと思う。鳥籠に入って いるペットに、私はしばしば牢に入れられている囚人を連想す る。(p228~p.229)
「信念」のようなものは、多くの行動に自動的につながる 論理が常にアタマにこびりついていることを言う。
さらに、それをそこそこの反論者らが持ち上げ ひっくり返そうとしても、それらのほとんどを論破し弁証し、 時に呆れさせるほどの頑固さを発揮する。
台湾の闘士でもあった著者の、 台湾に帰れば拘束されるかもしれず、 東京の繁華街の喧噪がまったく自分らには 関係のない虚飾に見えた、というくだりは 理解しにくくも悲哀があって印象に残る。
言葉は違うかも知れないが、強烈な物語性が自分の人生に覆いかぶさることで、その人生はいきいきと 動き始めるのだと思う。
もしかすると悲しい物語であっても、その物語の主人公として、 やはり能動的に動き始める。
「勝つ」も「負ける」も 「仲間」も「喜び」も 「間違い」も「喧嘩」も、 すべて物語のエピソードとしての側面を強くする。
その物語性を帯びさせる訓練を、 子供のうちにしておくのは良いことかも知れない。
現実は作り話とは違う。
フィクションは、現実とは異なる。
そういう言い方もあるが、フィクションの中には、 「フィクションの中としての現実」が存在する。
リアルの中にフィクションがあり、 そのフィクションの中にまた現実がある。
世界は、入れ子構造になっているのだ。
そのどの部分にどの時点で(空想といえど)自分がいると 思えるかで、またその世界観を自在に往復できるかで、 こころの豊かさは変わってくると思われる。
なにかイヤなことが起こったら、 「なぜ自分は、こんなイヤなことが起こることに 遭遇しているのだ」と、自分の非を考えてみよう。
それが、物語をアクティブに行き来するキーポイントだ。