善いとか悪いとかではない、と、一番最初に断っておく。
マツコデラックスとかミッツマングローブとか、 10年前には普通に「オカマ」というカテゴリーしかなかったジャンルで過去にはない、少し違う、知性を売りのひとつに掲げたような人たちが、活躍している。
それでも肩書きが「オカマ」という人はいない。
「タレント」という肩書きが使うには、それなりにタレント活動が充実していないと証明できないので、 それまではたとえばマツコ氏は「コラムニスト」、 ミッツ氏は「女装家」という肩書きだった。
女装そのものでメシって食っていけんのか、と言われればとうぜん違うが、「厳密にはオカマとは言わない」というような細かな住み分けも周知されるようになってきて、ただ、クネクネとシナを作っている気色悪い男というカテゴライズは許されなくなってきた。
マイノリティへの差別を撤廃しよう、という社会的な要請と、それは並走している「かのよう」だ。
オネエタレントたちの浅はかな共通点
今、活躍している人たちには、どうも 「説教」をそのタレント性に含む要素がある。
若い女性や現在の流行に対しての、正論と大上段からの意見が、まっとうな説教となっているのだ。
たとえば故・立川談志が同じ内容を説教としてぶつけるよりも、 オカマが口紅を塗った口で同じことを言った方が、説得力がある。
内容や語気、にではない。
「お前になんぞ言われたくない」の照準が、今や移動していると言えるかもしれない。
よく観察していると、活躍中のオカマはすべて、「男側」から発信している。
そんなの当たり前じゃないか、彼らは嗜好は女性でも性別は男性なんだから、と言われるかもしれない。
そうなのだ。
確かに男性なんだが、彼らはいったん「女装」や「嗜好」で女性側に立っているような素振りを見せながら、「論理は完全に(中年以上の)男性」なのである。
「論破で快感を得ているという時点で、男性」は言い過ぎか。
彼らの言説は商売として(言い方はよくないが)、『女なんてチョロいぜ』という昔から綿々と続く立脚点に立っている。 女性をターゲットにしつつ「教育」していき、さらに要所で持ち上げることにより、財布を開かせる手法。
新しい商業施設で女性向けの売り場が小さいところなど皆無だろう。
女性に向けてこそ商業は常に花開いているし、今後もまだまだ女性の購買力は発言力とともに期待されている。
オカマは本当は大人の男性なんだから、女性(特に若い女性)に相対する立場から説教できるのは当たり前なのだ。
オカマは両性の気持ちがわかる??
オカマはなぜか
「男の気持ちもわかるし、女性の気持ちもわかる」
と必ず言い張るし、それがその通りだとなぜか我々も、納得している。
それは、おかしいのだと、ここでハッキリ言っておく。
三徳ナイフは、モノも切れるし、ドライバーにもなる。あと、ワインも開けられる?
しかし、名前こそ三徳「ナイフ」だが、じゃあナイフを使うプロ(たとえば料理人)がみな三徳ナイフを使っているかというと、ぜんぜん使っていないのである。
むしろ、あんなものが使えるかと言うのが現場の声だろう。
つまり「ナイフであってナイフでない」「ドライバーであってドライバーとしても中途半端なのが、三徳ナイフなのである。ついでに、三徳ナイフを常備している一流ソムリエもたぶんおるまい。
とうぜん三徳ナイフに、ナイフの用途はあってもナイフの良さはない。
三徳ナイフにドライバーの機能はあっても、ドライバーが持つ素晴らしさはない。
三徳ナイフはナイフであってドライバーであってオープナーであるが、ナイフでもなければドライバーでもなく、オープナーでもない。
三徳ナイフは、三徳ナイフでしかないのだ。
オカマには、男の気持ちも、よくわからない。
女装や女性向けの嗜好を持つ男性が、男性の気持ちをはっきり認識できるわけがない。
女のことなど、最初からわかるわけがない(男だから)。
オカマがわかるのは、「オカマの気持ち」だけなのだ。
彼らがすべてをわかっているように物事を語るのは「大人の男性としての論理」なのだ。
その論理を「女性方面から見る」という形で援用しているから、女性の意見として、男性を見れているようにみえるだけなのだ。
だからオカマの「男性観」は常に紋切り型だし、オカマがする「女性への説教」は判を押したようにみな同じなのだ。
ただし、オカマにもいろいろあるようで、ホルモンの関係で手術をしたり「工事」を施したりで、精神が活発に移動するということはあると思う。
それはいわば「身体のこと」であり、手術を施している人の場合は男のこと、女のこと、両方わかると言えるだろう。
しかしそれは「身体のこと」であって、「気持ち」ではないのだ。
客観的に互いのことを見ることが出来ないのが男女の相容れないところなのだから、「両方わかる」と僭称しようがなんだろうが、そんなものは嘘なのである。
オッさんの論理を、女性的な論理でカバーし、感情でうまく補強しているにすぎない。
それで「両方の気持ちがわかる進んだスーパー人間」を僭称するかのように大言壮語するのは、詐欺的だとすら言えなくもない。
男性の論理に貫かれ、男性的社会で生き残ってきたオカマは、よって、常に男性(おっさん)側に回り、若い女性に説教し、搾取しようとする。
そういう構図だ。
目立とうとするオカマは、みなこの類。まず例外はない。
説教できる立場を、オヤジとして確立せんとしている。
現時点で、説教や訓戒を垂れるオネェな人たちは、オカマだから説教しているのではない。
まず、「オヤジだから、説教している」のだ。
そして「説教したい」のだ。
それが、オヤジとしての社会的地位の確立なのだといわんばかりに。
オカマとして、特異な悟りを得たわけでもない。
迫害されたマイノリティとして、人生の処方箋を与えらえる資格があるわけでもない。
ただ単に「オヤジとしての経験と知恵があれば、若い女なんぞに説教するのは当然の欲求」なのだ。
逆に「男たちに説教されて、女性としてひ弱さを見せるオカマ」というのは、目立つ場では存在が難しいのかも知れないし、それを目指すようなオカマはいない。
目立ちたいオカマはすべて「オヤジ側として権力を行使し、若い女性に説教するサイド」に回ろうとする。
例外はない。
先ほど書いたように、オカマには男性の気持ちも女性の気持ちもわからないので、彼らのご高説は「至極あたりまえのこと」ばかりになる。
踏み込んだことを言おうとすると、自分のパーソナリテイに入り込んだ苦しい胸の内も吐露せざるを得なくなり、それは自分の経験上、悲しさや怒りが伴うので、説教者として取り乱すことになってしまう。そのあたりをうまくミックスしているのは唯一マツコ・デラックスだけなのだが、説教が正論なのは古今東西の常識でもあるので、それを「素晴らしい」と賞賛するのはもともと無知で無思考な層か、「よく言ってくれた」とオカマに正論を託さざるを得ない情けない層だけなのである。
今後、オネエブームはどうなるか
流行を黙って受け入れるのはわれわれ庶民の常なので今の「オネエブーム」も、ありがたく頂戴している。類似品・粗悪品が出回るのも、当然のことである。
今後、オネエブームは、衰退しない。
新たな「オネエ」が探され、重宝がられることに、そんなに大きなズレはないと思われる。なぜなら「オカマなんか出すんじゃねえ!」という的外れな抗議は、社会的に効力を持たないものになってきているからだ。
この認知のされ方やブームは、性の問題に悩む若者の期待度を上げる結果になるはずである。
つまり、極度な自己顕示欲があった者だけが特殊な界隈に出入りし、さらに目立つ形でメディアに進出してきたわけだが、それ自体が、そうでない者の息苦しく生きるしかなかった人生に「カミングアウトのしやすさ」という光明が指す可能性を広げたのである。
そして「低年齢化」は親世代から子に伝えられ、十代でカミングアウトし自由を得る若者はさらに増えるだろう。そうすると、分母の増加から「極度な自己顕示欲があり、さらに目立つ形でメディアに進出したいと渇望する」人らが、取り沙汰されることなる。
「オカマの低年齢化」。
社会的な推移とは少し趣を異にして、目立つ分野では必ずこれが起こると思う。
そうすると「オヤジたちの論理」を持つという、現在のオカマさんたちが持っている、商売としての武器が失われることになる。
さすがにF1層(20代前半女性)の人たちも、十代の少年少女に説教されることはよしとしないはずである。
つまり現在のようなオカマーケティングは、いったん終わりを告げるのである。
その契機は、マツコデラックスの引退とともに訪れる気がする。
殊更に言及している人は他にたくさんいるだろうけれど、ことほどさようにマツコさんは、もはや個人やタレントとしてでなく「機能」として社会に存在していると言っていい。
そして、そのオカマーケティングに便乗している「偽物」はいずれ、歳下のカミングアウトした世代から突き上げを食い、すごすごと退場することになるだろう。
ちなみに「まっとうなこと言うじゃないか、オカマのくせに」が、普通の成人の、オカマに対する反応であって、これはある意味正しい。
いくら常識的なことを言われても、非常識とも言える女装をしてるお前に、そんなことを述べる資格はないとされるのが一般社会だからだ。
それを
「わ〜さすが〜素敵〜マツコさん〜」
などと感心し傾倒しているのは無知蒙昧であることをベースにした、「オカマーケティングのカモ」である証拠なのである。
一番最後に、オカマも偽オカマも女装も男装も、善いとか悪いとかではない、と、もう一度断っておく。
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