昔から日本人には、「死して詫びる」みたいな感覚があると言うが、ほんとなのか。
切腹が、どう考えても日本好きの外国人の中で有名すぎる。
江戸時代だって、庶民には「あり得ない」行ないだったろう。
現代人からすると自分がそれをすることは100%無いとしても、昔の日本人はそうだったんだろうなぁ、という感覚、すごくすんなり受け入れられてる気がする。
いや、うん、それって武士だけだから。
人口の2割もいないような特殊な特権階級だけの、思想だから。
まったく不思議なことだと思うが、なんとなくその、
腹に刺さった短刀による痛みとか、
出血による薄れゆく意識とか、
倒れ行く上半身だとか、
介錯されて落ちてゆく頭部の重みだとか、
そういう具体的で身に迫る現実感よりも、
「◯◯のために」「喜んで切腹いたす」みたいな、
精神論があまりにも巨大な影となって脳裏をかすめるものだから、
実は誰も、うまくイメージング出来てないんじゃないか、とも思う。
そして、ひとえにそれはわれわれが圧倒的に百姓の子孫だからではないか、と。
今でも自殺が3万人をくだった年はない、と言われるほどの自殺大国である日本は、そこに住む大多数の日本人が「命をもって償う」という感覚を歴史の連続性を持って継承しているからだ、とも言われたりしてる。
そしてなんとなく「そうなんだろうな」と、思ってしまっている。
出典:警察庁「平成22年中における自殺の概要資料」
http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm
しかし、ほんとにそうなんだろうか。
「切腹」と「自死」は、決定的に違う。
死ぬだけなら首吊ってでも死ねるけど、「切腹」は、様式に沿って執り行われなければならない「最期の行事」であるので、それが出来る身分の人らというのはとてもとても限定されていた。
それは言わずと知れた、武士階級だけ。
人口の2割いるかいないか、の人らによる特殊な儀礼だったわけだから、それをなぜか「日本人のこころ」として現代人が共有してるのって、妙なのだ。
ああ、それは「SAMURAI」っていう感じも同じですね。
何度も言いますが、われわれはほとんど、「NOUMIN」です(笑)。
武士は必ず「切腹」で死ぬ、なんてことはないわけで、例えば悪いことをしたり主君の不興を買ったりムリヤリ責任とらされたりする時に、最も上級の、ちゃんとした死に方として、「切腹」という『名誉』が与えられる。
もちろん、それは形骸化した便宜上のことだった、っていう見方もあるかも知れない。
しかし当時の社会通念上、その他の罰せられ方(島流しとか斬首とか)よりも、
はるかに良い死に方だった。
その価値観において、どんな死に方だろうが死んだらいっしょだ、なんてのは大きな間違い。
それは、残された一族郎党の処遇に、格段の差が出て来ることで分かる。
ほら、戦国時代でも、戦った城主(大名)と嫡男が切腹することで、家来その他の何千人が命を救われた、という例はいくらでもあるのだから。
つまり切腹が名誉だというのは、残された家族親類縁者にとっての有り難さ、という側面がある。自分の名誉だけのために自決するのではない。
戦闘集団の構成員である鎌倉以来の武士と、江戸中期から幕末にかけての武士とでは、「血を見る」という頻度においては隔絶した感があるが、それでも「切腹」は残ってるわけですから、普段の生活にぴんとした緊張感が漂っていたことは、想像してあまりある。
江戸後期においては切腹も極端に形式化され、自分でお腹に短刀を突き立てなくても、短刀代わりに三宝に置いた扇子に、手をかけた瞬間に後ろから介錯人が首を落とす、というものになっていったらしい。
それでも幕末の、武市半平太の切腹など、その壮絶さが伝えられている例もあるから、現代からは想像もつかない緊張感が、やはりあった。
「責任をとる」という意味での自死は、今もあるのだろうけど、この折れ線グラフ(下の方)を見てもらいたい。
職業別で見ると、自殺者で圧倒的に多いのは「無職」だ。
無職なのに職業別っていうのもなんだか変ですけど、逆に少ないのは「管理職」。
『責任をとって自害する』の、「責任」がある人らの自殺率は低い。
責任なんてないはずの「無職」が、圧倒的な自殺者数を誇っている。
これはいったいなにを示しているのだろう。
カタチだけは「SAMURAI」「腹切り」を日本文化として継承しているような顔をして、やっぱりわれわれは「武士」とか「もののふ」とか「武士道」とは、実はぜんぜん遠い存在なんじゃないかと思う。
実は「武士道」などを忌み嫌い、封建的な社会を蛇蝎のように感じて来た人らの末裔でしかないのだから、この感覚の違いはどこから来るんだろうと、首をかしげざるを得ない。
いや、ひとつだけ、原因のようなものを見つけた。
『時代劇やりすぎ』??