池上彰のメディア・リテラシー入門

ットリテラシーってなんだろう。

簡単ながら、考えてみた。

ネットに触れるということは、もはや当たり前のことだ。
触れているという感覚も、もう麻痺し始めている。

メールは最初、「eーメール」と呼んでいたし、そもそもメールは「送る」としか表現していなかったが、Twitterではリプライは「飛ばす」ものだし、LINEにいたっては「LINEが来る」と表現したりする。

そのモノ自体が変わるたび、捉え方も変化しているのだ。

いまやテレビの録画機に付属しているリモコンにも「巻き戻し」の語はなく「逆送り」などと書いてある。

ネットショッピングも、若者がパソコンを駆使してするもの、から、ご老人が自宅にいながら生鮮食品を買えるもの、にまで進化したし、さっきも出て来たメールも市民権を得たどころか、これがないと現時点では仕事にも遊びにも支障が
でる。
そして「遊び」の場では、メールが駆逐されつつある(TwitterやLINEの登場で)。

現代社会は続いていて、技術も日進月歩なのでついてゆけなくなる時がいつ来てもおかしくないのだが、よく考えてみると、どの時代にも「それが当たり前の世代」というのが存在する。

生まれつきネットがあった世代
生まれつきブロードバンドが当たり前の世代
生まれつきハイビジョンが当たり前だった世代
生まれつきテレビがあった世代
生まれつき醤油ちゅるちゅるがあった世代


いろんな「生まれつき、それがあった世代」がある。

無い時代の人は、自分が生きて行く過程でそれが鳴りものいりで登場し、社会ぜんたいで驚き、いつしか慣れていく。



その過程で、つきあい方で試行錯誤していく中でその功罪や意味、無かった時代との比較で喜びと悲しみを噛み締めて考えていく。

生まれつきそれがある世代は、意味の感じ方が違う。

一つの言い方としては「ありがたみがわかっていない」。

なかった世代からしてみれば、当たり前に使いこなしありがたみを感じていない様子を、贅沢で怠惰だと感じることもある。

しかしそのなかった世代も、なんらかの「生まれつきそれがあった世代」であることは間違いがない。
例外無く上の世代も、それぞれの世代の「それ」はあたりまえに使いこなしていて、真のありがたみを感じていない部分があるのだ。
自動車とか、宅配とか。

「生まれつきそれがあった世代」からしてみれば、贅沢だ、怠惰だと言われても、しっくりとは来ない。
そんなことを言われても困るのである。

江戸時代の中期に生まれた人が、戦国生まれの人に「平和ボケだな」と言われても困る、みたいなものだ。
生まれつきそれがあるのは自分のせいではないし、コントロールすることもできなかった。
ましてや、それを自分から手放すようなことができるはずもない。

ソクラテスの時代から言われているように、「現代の若者は…」という嘆きは、上の世代より下の世代がダメになっていっているという普遍性などではなく、上の世代は下の世代に新しいツールやそれをとりまく思想や考え方において、絶対に追いつけなくなっていくという当たり前で不変の法則を
表しているのではないだろうか。
早めに、逃げないで、とっかかってみることが大切だと思う。
若い者に嗤われないように、いや、もちろんそこには大人ならではの慎重さも必要だけれど。

たとえばいい歳をした男性が、若い女性に向けてやたらえげつない絵文字をつかいまくっている様子は、やはり痛々しい。