小さな騒ぎは各地で起こっていたが、最初の大事件は五〇年二月五日に起こった。川崎競輪の第九レースで一番人気の選手がペダルの故障で着外となり、審判団はその選手を失格とした。
これに納得しない一部の観客が騒ぎ出し、透析を始めたり、選手の自転車を場内の池に投げ込むなどした、騒ぎはますます大きくなり、選手控え室や決勝板、コースの木製の柵などを次々に破壊した。
さらに約二百人が車券売場になだれ込み、窓ガラスや椅子、机などをたたき壊し、売上金を抱えて逃げようとした女子職員から金を奪った。(p.85〜p.86)

象徴的な出来事があった。二〇〇二年(平成十四)年頃のことらしいのだが、奈良県の広報誌である「県政だより」に県営競輪の開催日程が掲載されたのである。
「それの何が?」と思われる方も多いに違いないが、奈良県では前代未聞だった。
いや、競輪や競艇の日程が自治体の広報に掲載されるなど、まずあり得ないことだった。
そのことは、これにいちばん驚いたのが競輪の所管官庁である経済産業省の担当者だったというエピソードが端的に物語っている。公営ギャンブルの主催者がそれを積
極的にアピールすることはそれほどにタブーだった。(p.145〜p.146)

もう、売り上げが元に戻ることはあり得ないのである。(p.155)




営、というからにはその売り上げ、収益は公共の福祉に寄与されなければならない。
一個人や一企業が儲けて社長が大豪邸に住んで社員旅行は半年に一度サイパンへ行くのだ、という性格のものであってはならない。
少し前には、「ギャンブルで学校や病院を立てるなどとは倫理にもとる」というような論議があったそうだが、最近は聞かない。

それよりも、収益の減少による「開催の是非」の方が問題である。

べて公営ギャンブルにおける理屈は、バブル絶頂期へ向かう中で決められたままになっている。なので、今後は地方を中心に、公営ギャンブルは減少していかざるを得ない。

なぜなら、自治体が運営するギャンブルで、収益が減り、それを補填するために、開催を維持するために税金を投入するというのは本末転倒だからだ。

公営ギャンブルのために市町村の財政が悪化するのでは、なんのためにやっているかわからなくなる。


しかし、公共の施設である公営ギャンブルが撤退されようとする時、そのギャンブルで生計を立てている(賭けで勝ったり負けたりしているという意味ではなく、従事者という意味)人たちの雇用も、ある程度保障されなければならないだろう。

れでも、過剰な保護が必要かどうかは疑問だ。
経済のあおりで縮小を余儀なくされているジャンルはたくさんあり、職を失い苦労している人もいるからだ。
公営ギャンブルに関わる人たちだけが過剰に保護されることは世間が許すまい。

なんとなく流れるテレビCMで競輪競馬競艇を見ているが、深くのめりこんだことがない者の勝手な意見としては、やたら競艇のCMだけが幼稚で(赤白黄色など五色のアッキーナ、というやつ)、妙にバカにしてる感があるのは何故だろう。

JRAのドラマ仕立て感があるものに比べ、もっと簡単で知識のない人らを巻き込もうとして売り上げアップを狙っている、と感じるのは考え過ぎだろうか。