誰でもよかった (幻冬舎文庫)

「誰でもよかった」って、嘘ですよね。
猟奇的な殺人犯とか、大量に死傷させる事件を起こした犯人が言ったとされ、わけのわからない、動機不明な、最近の、ネット中毒の、変なヤツの言うこと、っていう感じで処理されて、いつの間にか我々も「誰でもよかった、ってなんだよ!」という怒りを持って、感情を収めるようになっている。

でも考えてみると、
「誰でも」っていうのは「自分により弱ければ」っていう絶対位的な条件がついてる。

こういう犯人は、

強そうな奴、
油断してない奴、
社会的な地位のある奴、
権力のある奴、
ややこしそうな奴、

は、決して狙わない。

自分と取っ組み合いをしても負けそうで、
油断していて、
不意をついて殺せそうで、
途中で反撃とかしてこなさそうな奴を狙う。

かっこつけんなヨ?と思います。「誰でもよかった」だなんて。

この本は、2008年の秋葉原の加藤智大の事件を渋谷で再現したようなところから始まり、警察との電話での交渉が延々と描かれる。

レンタカーを借りて繁華街に突っ込んでナイフを…というところまで同じ。

 
パクる、とかそういう次元のことではないけれど、
秋葉原の事件が下敷きになっているがゆえに、事件の真相、犯人の真の動機を、未だ、けっきょく誰も理解できていない、という不可解な心情から、こういうフィクションが書かれたのだろうと思います。

みな、動機を知ろうとします。

なぜか?

本当の動機がわかれば、同じような犯罪を抑止するのに役立つかもしれないからです。

「金がなくてやった」んなら、
豊富な貯蓄ができるような仕事と生活を与えればいい。

「恨みがあった」んなら、
人間関係がこじれないような環境を整備すればいい。

動機を突き止めるには、
社会的に有用な目的あるというわけです。

結局、
この話も秋葉原の加藤智大も、
「孤独だった」というようなところに動機が求められようとしていますよね。

「孤独だったから、殺した」なんて、
犯行の動機になるんでしょうかね。

その他、絶対的大多数の、

「孤独だけど殺人など犯さない人々」は、

じゃあ、「予備軍」なのか?

ってことに、なりません?

動機を知ることは大切ではあれど、
「単一の動機」なんて、結局ないんじゃないでしょうか。