プロテスタントの牧師、佐伯保は、教誨師として月に2回拘置所を訪れ、一癖も二癖もある死刑囚と面会する。無言を貫き、佐伯の問いにも一切応えようとしない鈴木。気のよいヤクザの組長、吉田。年老いたホームレス、進藤。よくしゃベる関西出身の中年女性、野口。面会にも来ない我が子を思い続ける気弱な小川。そして自己中心的な若者、高宮。佐伯は、彼らが自らの罪を悔い改めることで心安らかに“死”を迎えられるよう、親身になって彼らの話を聞き聖書の言葉を伝える。少しずつ死刑囚の心にも変化が見られるものの、高宮だけは常に社会に対する不満をぶちまけ、佐伯に対しても一貫して攻撃的な態度をとり続ける。死刑囚たちと真剣に向き合うことで、自分の人生とも向き合うようになる佐伯。そんな中、ついにある受刑者に死刑執行の命が下される…。
「教誨」には「一般」と「宗教」がある。
一般教誨は、刑務官などの職員が担当する。
宗教教誨の場合、宗教者が呼ばれる。
この映画のようにキリスト教だけでなく、仏教や神道などから選べる。
一般教誨は義務だが、宗教教誨は自由参加。
死刑囚に対する教誨師となれば、映画としては「様々な受刑者」を描くしかなく、これまたステレオタイプな人々を選択するしかないのだろう。
そこは苦しいところだと思う。
実際にあった事件をそのままモデルにするわけにもいかないし、
だからと言ってフィクションすぎても実感が出てこない。
そこで、教誨師の側(大杉漣)のトラウマ・過去の記憶を対峙する位置に設定して、悩みながらも、苦しみながらも、考えながら、命というもの、その命を奪うという事柄を、観客に考えさせるという仕組みになっていると感じた。
どうしても、こういうお題の映画は「考えさせる」というような、テーマを投げ出した作りになってしまうことが多い。
それは仕方のないことかもしれない。
答えなんかないし、押しつけの方が責められるから。
ある程度の押し付けは、「死刑囚の勝手な言い分」として設定されており、そこで「勝手なことを言うな人殺しが」と反発したり、「わかったようなこと言ってるけど捕まってるじゃん」と蔑んだり、観ている側はある一定の溜飲を下げる。
Amazonプライムに入れば、すぐ観れるというやつ!