空気を維持するために、話し手と聞き手の間で会話のスタイルが共通化されるように選択されていく、この作用は時には、新語や造語が濫発され、瞬く間に広がっていく原因ともなる。また、日本語の初心者や、幼児に対して「正統的な日本語」を会話を通じて教えることを阻害しているということも指摘でき
る。(p.54〜p.55)

むしろ問題なのは現在「勝ち組」と言われている人々である。成功した起業家、改革者を自称する政治家、あるいは能力主義の起業社会を生き抜いている成功者、といった人々の「コミュニケーション力」とは本当は何なのだろう。価値観の多様化する中で、極めて狭い勝ち負けの感覚だけを持ち、怪しげな弁舌でその場その場の「空気」を権力の側に引き寄せて強引に他人を動かそうとする。その傲岸な姿勢こそ、社会に「気まずい沈黙」や「日本語の窒息」をまき散らしているように思えてならないのである。(p.80)

短い言葉に象徴的な意味を持たせて、コミュニケーションの効率を高める。その高効率化にあたっては、意味や論理の伝達だけでなく、話し手と聞き手の関係性のコントロール機能まで押し込んでしまうのが日本語である。(p.88)


レビなどを観ていると、いつのまにか番組名やコーナー名が短縮されて略語になり、それが正式な番組名やコーナー名として発表されている、というような場合が、たまにある。

おおざっぱに言わせれもらえれば、略語は危険だな、と思う。

略語は、あだ名にも使われることでわかる通り、「内輪の符丁(ふちょう)」であることが多い。
「うちわ」の符丁ですから、公の場で使うことはたいていは憚(はばか)られる。

憚られるから作られたのが符丁だ、という場合も多い。

お客さんの耳に露骨な価格を入れないために作られたりとか、無粋な相談を気取られないようにとか、内輪の都合で、外部に知られない工夫。
本書にも書いてある通り、わからない人が混じる場で略語や符丁を使うと、それを解さない人への圧力として使うことも出来る。
その圧力を無視しして「それってなぁーに?」と素直に尋ねられて打開することも多いだろうが、そうでない場合は、「憚られる」という特質が最大限に発揮されて、イジメに使うことも出来る陰湿な武器となる。

気があった番組のタイトルが略されて使われる時、もちろんそれが「略語だ」とわかる場合はその番組のことを知っているという証拠だから問題もないのだが、まったく知らない人にとってはいきなり「ボク生き2」とか言われても困るわけだ。

ボクらはみんな生きている」(1997年、フジテレビ)を知っているからこその略語なのだから。

ぼく生き1

当時の当事者にそんな悪意めいたものはなかったことはわかるが、なにか不遜なものを感じてしまうのも事実だ。

「ボク生き」で通じる、と判断した、その瞬間に。
言葉を短縮して遣ったり略語を作ったりはたまた違う意味で使ったりというのは、言葉の使用法としては高度であり、勉強中の外国人や幼児には通用しない。

しかしよく考えてみると、この「内輪の符丁」が、われわれの日常会話のほとんどすべてを支配していないだろうか。正式な、公的な、フォーマルな日本語だけで話す機会が多い方々は逆に、特別な小数派だという気がしてくる。